どうしてお墓を建てるのか?お墓を建てる意味や目的について考えよう
お墓の建てると意味とは?徹底解説
- お墓は遺体や遺骨を埋める場所で、石以外にも木や土が使われる。
- 死者を供養し、生きる人の幸せを祈る象徴的な場所。
- 日本では石塔が一般的で、江戸時代には庶民にも普及。
- 樹木葬や納骨堂など多様な供養法が現代にはある。
私たち日本人は「お墓」と聞くと当たり前のように墓石のことを連想しますが、石だけがお墓ではないことをご存じでしたか?
お墓とは遺体や遺骨を埋葬した場所全般のことを指すのです。
それなのに私たち日本人は無意識レベルで「お墓=墓石」と捉えています。
ヒトはどうして先祖を埋葬し、お墓構えてきたのか。
そして日本ではどうしてお墓に石を用い、石塔文化が浸透したのか。
この記事ではさまざまな角度から、お墓を建てる意味について考え、その本質に迫ります。
あなたにあったお墓を見てみる
お墓に関する4つの質問に答えるだけで、あなたにあったお墓を調べられます。
4つの質問で見つかる!
Q. お墓は代々継いでいきたいですか?
希望エリアのお墓の購入費用を調べる
ライフドットでは全国8,700件以上の霊園・墓地情報を掲載しています。
地域別の費用相場や、詳しいお墓の費用を確認することができます。
エリアから探す
この記事の目次
墓石だけがお墓じゃない お墓の定義を考える
「お墓」と聞くとみなさんは石でできた石塔、つまり墓石を連想するのではないでしょうか。
それだけ日本社会ではお墓に石が用いられることが当たり前のように人々の意識に浸透しています。
「お墓」という言葉の意味に注目するならば、次のように定義されています。
- 岩波書店『広辞苑(第五版)』
死者の遺骸や遺骨を葬った所。つか。
- 小学館の『デジタル大辞泉』
遺体・遺骨を埋葬した場所。また、そこに記念のために建てられた建造物。塚
面白いことに、ここでは「墓=石」とはどこにも書かれていません。
お墓とは、あくまでも遺体の埋葬地であり、墓標、つまりはそこに遺体が埋葬されていることを知らせるしるしにすぎないのです。
ですから石以外にもさまざまなお墓があります。
木のお墓
木のお墓といえば「塔婆」があります。
塔婆とは戒名などを書き記してお墓の横に立てておく木の板のことです。
板状の「板塔婆」や角柱型の「角塔婆」などがありますが、昔はこれを埋葬地に突きさすことで墓標としたものであり、現在でも一部使われることがあります。
筆者も塔婆のお墓で供養する現場に何度も立ち会いましたが、これも立派なお墓なのです。
四国のお遍路さんが手に持つ金剛杖も塔婆に見立てて、お遍路さんが亡くなった時の墓標に用いられると言われています。
また、最近流行している樹木葬も木のお墓の1つです。
土のお墓
「塚」とは土を盛り上げた場所のことです。
埋葬地に土を盛り上げてお墓とします。
土のお墓は、かつての日本もそうでしたし、韓国などでは今でも見られる光景です。
広い意味で古墳や墳丘墓も、塚に含まれます。
ただ土をこんもり盛った塚もあれば、土の上に石碑などを据えることもあります。
お墓を建てる意味は先祖の供養目的だけでない
みなさんはどうして亡くなった人の埋葬地の真上に墓石を建てるのだと思いますか?
お墓を建てることにはどんな意味があり、どうしてお墓は石なのでしょうか?
私たちは、亡くなった人ができてはじめてお墓を建てるものだと考えます。
もちろんこれは間違いではないのですが、実はお墓にはそれ以上のさまざまな深い意味・役割があるのです。
お墓を建てる意味について、ひとつずつ考えてみましょう。
遺骨が埋葬してあることのしるし
お墓には、その場所に遺体が埋葬されているの "しるし“ としての役割があります。
いわゆる「墓標」としての役割です。
お墓のはじまりには諸説ありますが、土の中に埋めた死者がよみがえらないように、あるいは野犬などの動物が土を掘り返さないようにという原始的な理由によるものだと考えられます。
ですから、大昔の墓石は、今のようにきちんと形が整えられたものではなく、もっと粗雑で素朴だったと思われます。
埋葬地には人為的な石が置かれるようになり、その光景を見て、その石の下に死者がいるのだとを認識していったはずです。
近畿地方には両墓制といって埋葬墓地(埋め墓)と詣り墓地(詣り墓)の2つのお墓を用いていました。
埋め墓の墓地は今でも残っており、あちこちに素朴な小さな自然石が置かれています。
もともとは原始的な理由で置かれた自然石でしたが、やがて石そのものに霊力が宿るよう感じます。
人々はその石をうやうやしく扱うようになり、時代が下るに連れて石工の技術が進化し、墓石として成形していったのでしょう。
また、旧石器時代や縄文時代のお墓に「土壙墓(どこうぼ)」があります。
土を掘って穴を作りその中に遺体を埋葬するのですが、その内外にも石が配置されているのが確認されています。
死者の安寧を願う供養塔
お墓を建てる意味としてもっとも考えられるのは、先祖や死者の安寧を願うため、つまりは供養のためです。
私たちは、亡くなった人の遺骨をお墓の中に埋葬します。
いつまでも自宅に置いておくわけにはいかないと本能的に感じます。
そして、遺骨を土に還すことで私たちは安心感を覚えるようです。
埋葬そのものは、遺体や遺骨を土を通して大自然に還っていくことを願って古くから行われている行為で、その埋葬地に石が用いられてきました。
もとは動物たちが荒らして遺体が四散しないように、あるいは死者の甦りへの恐れから石が用いられてきたと考えられますが、時代が下ることで日本では仏教の影響を受け、石そのものが供養のシンボルとなっていきます。
たとえば、平安末期から鎌倉時代にかけての不安定な社会情勢を地獄に見立てた絵巻物に『餓鬼草紙』が、この時代ではすでに立派な五輪塔が用いられていることが確認できます。
当時は、死者は埋葬もされずにそのあたりに打ち捨てられていた(遺棄葬)のですが、その絵巻の中でも死者供養のための五輪塔が描かれています。
石塔が庶民のものになっていくには江戸時代を待たなければなりませんが、供養としての墓石(仏塔)は、すでに平安末期から建立され始めています。
自分たちの幸せを祈る祈念塔
お墓は、いまを生きる私たちのためのものでもあります。
お墓に行けばご先祖様に会えるのですが、みなさんはお墓参りの時に何を語りかけますか?
そもそも石に向かって語りかける、というだけで、そこには目に見えない死者との交感が見られます。
近況報告をする人もいるでしょうし、亡くなった方の身を案じる人もいるでしょうし、お願いごとをする人もいるでしょう。
ご先祖様は供養すべき対象であると同時に、私たちを守ってくれる存在のようにも思えます。
日本人は、死者を49日でホトケにして、33年かけてカミにしていくという、面白い死生観を持った民族です。
お墓を建てることは、故人様のためご先祖様のためであると同時に私たちの祈りの場を作ることにも通ずるのです。
自分たちの両親、祖父母、そしてそこから続いていくご先祖様。
お墓は、こうした自分たちのルーツに触れる場所でもあるのです。
先祖や家族のつながりのシンボル
お墓には、両親や祖父母などの遺骨や遺体が埋葬されており、そこがそのまま祈りの場ともなります。
子孫である私たちはお墓参りすることで先祖とのつながりを感じられるようになります。
お墓は先祖や家族のつながりを表すシンボルです。
墓石の正面には家の名前を刻み、側面や霊標には先祖や家族の名前を刻んでいきます。
また石はとても強く、堅牢です。
いつまでもそこに居続ける強さがあります。
だからこそお墓は、先祖や家族との強いつながりを表すシンボルでいられるのでしょう。
お墓を建てるのが普及したキッカケとは
現在のような墓石が建立されるようになったのは仏教伝来が大きく影響しています。
仏教が日本にやってくる以前もお墓には石が用いられていました。
しかし仏教は死者供養の思想を体系的に持っており、それに基づく供養塔が平安時代から建て始められます。
当時は、貴族や武家や高僧などが亡くなると五輪塔や宝篋印塔などの墓石を建てました。
庶民たちは経済的余裕がないので、石塔を建てることなどできなかったのですが、聖(ひじり)と呼ばれる諸国を遍歴する遊行僧たちが、手のひらに乗るほどの「一石五輪塔」を各地の人々に授けたとも言われています。
こうして身分の差こそあれ、日本に石塔文化が根付いていきます。
その後、江戸時代に入り、庶民の経済力が安定し、檀家制度の影響もあり、現在のようなお墓が建てられるようになりました。
時代別 日本人の埋葬とお墓の歴史
時代によって社会構造は異なり、それによって埋葬の方法やお墓の形も異なります。
ここでは、日本の歴史に沿ってお墓の形や埋葬のあり方をご説明します。
日本人の先祖がどのように死者を埋葬してきたかを知ることによってお墓を建てる意味が垣間見れるかもしれません。
旧石器時代のお墓
世界最古のお墓として、シリアのデデリエ洞窟で確認されたネアンデルタール人のお墓が有名です。
また、イラクのシャニダール洞窟では埋葬人骨の周りから花粉が見つかりました。
このことからネアンデルタール人は死者に花を手向けていたのではと言われています。
一方、日本列島は土壌が酸性のため、人骨などは長時間土中にあると溶けてしまいます。
そのため、どこまでが旧石器時代の墓かの認識が難しいようですが、大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡や北海道上磯郡の湯の里4遺跡など、墓と考えられる土壙は何例か確認されています。
縄文時代のお墓
縄文時代の埋葬は、死者の手足を折り曲げる「屈葬」が大半だと言われています。
屈葬が採用された理由には、墓穴を掘る労力の節約、胎児の姿をさせる、休息の姿勢など諸説あります。
また特殊な埋葬法として、頭部に土器を乗せる「甕被り」や石を抱かせる「石抱き」などの埋葬例が数多く見られ、不条理な死に対して「封じ込め」を意味することが想定されます。
また「配石遺構」も縄文時代に見られる特徴的なお墓です。
日本で代表的なのは秋田県鹿角市の大湯環状列石です。
埋葬や祭祀の場のために、数多くの石を数世代にわたり計画的に並べたのではないかと考えられています。
弥生時代のお墓
弥生時代のお墓では依然として土壙墓が大半ですが、石棺墓や木棺墓の確認されています。
特に特徴的なのは「支石墓」です。
朝鮮半島の影響によると思われている支石墓は九州で多く見られます。
木棺(木で作られた棺)、石棺(石で作られた棺)、甕棺(甕や壷の棺)の中に遺体を納めるのですが、それらの墓の上に複数の支石を配し、さらにその上に大きな上石を乗せたものが支石墓です。
また、「墳丘墓」と見られるお墓の形態もこの頃に見られ、時代が下ることでこれが古墳となっていきます。
古墳時代のお墓
古墳時代のお墓はまさに古墳です。
お墓の形態がその時代を表していますが、それは王制の始まりをも意味しています。
古墳はごく少数の有力者たちの埋葬施設であると同時に権力を表す場でもありました。
一般の庶民たちのお墓は未だに土壙だと推定されています。
奈良・平安時代のお墓
大化元年(645年)の孝徳天皇による「大化の改新」。
その翌年に「薄葬令」が発布されました。
「薄葬」とは読んで字のごとく葬送を手薄く行うことで、大化の薄葬令では王族や庶民の陵墓の造営を抑制し、これによって古墳時代は終わりを告げました。
それにあわせて登場するのが火葬です。
『続日本記』では、文武四年(700年)に道昭という僧侶が火葬されたことを伝え、「天下の火葬、此れより始まれり」と記されています。
続いて大宝3年(703年)に持統天皇が崩御し、天皇の中でははじめて火葬にされました。
中世(平安後期〜鎌倉〜室町時代)のお墓
中世に入ると石造物の建立が日本中で見られるようになります。
特に、鎌倉時代は日本の石造美術の最高峰と言われ、各地に建てられた「五輪塔」や「宝篋印塔」はいまでも目にすることができます。
関東地方では「板碑(いたひ)」と呼ばれる位牌のような形の薄い石塔が建てられ、武士を中心に墓石として用いられました。
また、鎌倉に集中する特殊なお墓に「やぐら」があります。
横穴式の穴や洞窟の中に五輪塔を据えたり、壁面に仏像や仏塔を彫刻したものなどさまざまなものがあります。
ここにあげたお墓はやはり武士や高僧などの有力者のもので、中世期の庶民は風葬、いわゆる遺棄葬だったと言われています。
こうした中で納骨信仰が庶民の間に広がり、その普及を担ったのが高野山を拠点として全国を遊行した高野聖たちです。
彼らは日本中の諸国を遍歴しては、供養や納骨などを行い、勧進と呼ばれる募金を募りました。
その時に彼らが庶民に手渡したのが一石五輪塔(いっせきごりんとう:手に乗せられるほどの小さな五輪塔)だったそうです。
近世(江戸時代)のお墓
江戸時代になると檀家制度が敷かれることにより、お墓は一気に庶民に普及していきます。
現代のようなお墓の原型は、江戸時代から始まったと言ってもいいでしょう。
また、この頃からイエの観念が芽生え始めて来たことから墓石は故人のものだけでなく、夫婦のもの、その家の先祖代々を祀るものとして考えられるようになってきました。
近現代のお墓
明治期から戦前までは比較的江戸時代の墓制を引き継いでいます。
神道中心の国家を目指していた明治新政府は、仏教の影響下にあった火葬を禁止したのですが(明治6年)、土地不足などの問題からその2年後には禁止令を廃止しています。
と同時に、明治新政府は葬儀を仏式ではなく神式(神葬祭)で行うことを進めたのですが、これも人々には受け入れられませんでした。
江戸時代に確立された仏教寺院を中心とした宗教観が、葬儀や埋葬の場面では根強く生き続けたことを意味します。
戦後になって日本のお墓の光景が一変したのは『墓地、埋葬などに関する法律』が制定されたためです。
墓制とは、そもそも地域や寺院の習俗として行われていたものですが、この法律が制定されることにより、墓地の管理に法規制がかけられることになったのです。
埋葬は「墓地」と認められた場所にしかできなくなり、墓地の経営者は地方自治体や宗教法人などに限定されるようになりました。
大規模霊園が造成され、洋風のデザインが流行し、最近では樹木葬や散骨などの墓石を用いない供養法も登場しています。
ちなみに現在では当たり前に思われている研磨仕上げの墓石(表面がつるつるぴかぴかの墓石)は、昭和初期から登場したもので、これは機械工学の産物です。
それまでお墓といえば、ノミとセットウで「こつこつ」叩いて仕上げていくものでしたから、古いお墓の表面やざらざらやごつごつしていものが当たり前だったのです。
近現代のお墓の建立についてより詳しく知りたい方は「お墓を建立する流れを知ろう!考慮すべきポイントや時期も解説」の記事をご覧ください。
必ずしもお墓を建てる必要性はない
私たちは「お墓=石塔」と考えています。
これまでの日本の墓制の歴史を見ている限り、なぜお墓に石が用いられているかの理由が分かるかと思います。
しかし、ここまで高度に進化したテクノロジーが社会を形作っている時代では、新たな死生観や死後観に呼応するように新しいお墓の形が登場しています。
石を用いない新しいお墓をご紹介いたします。
樹木葬
樹木葬とは、樹木を墓標としたお墓のことです。
埋葬地には石塔ではなく樹木を植えて礼拝します。
樹木葬には里山型と霊園型とがあります。
里山型は、大自然の山の中に遺骨を埋葬し、カロートなどの人工の構造物を一切使用しない樹木葬です。
霊園型は、造成された霊園の中で植樹をするタイプのお墓のことです。
植樹の方法にもさまざまあり、個別に好きな樹木を植えるものとシンボルツリーの周辺に納骨をするものなどがあります。
また霊園によっては、カロートや小柄な石塔など構造物を使用することもあるでしょう。
納骨堂
納骨堂とは、納骨施設を備えた建物のことです。
屋内型のお墓とも言い換えられます。
多くは寺院の堂内や専用の建物の中に設けられています。
ロッカー型の納骨壇に遺骨を収蔵するタイプ、仏壇のように礼拝と納骨が一緒にできるタイプなどがあります。
また都心部を中心にビル型の納骨堂があり、コンピューター制御でバックヤードから遺骨が自動搬送されるシステムになっています。
永代供養
永代供養とは先祖や死者の供養を寺院に任せることです。
遺骨は合祀墓や集合墓と呼ばれる共同使用の墓地に合葬されます。
昔は檀家の中で跡取りがいない家の遺骨を寺院が預かっていたのですが、現代ではあととりや身寄りのいない人が大変多く、永代供養を募っている寺院は数多くあります。
お墓の後継者問題も含めて変わる考え
これまでお墓は先祖代々を祀る場所でした。
しかし時代が変わり、人々は自由に住まいを移動するようになりましたし、少子高齢化によりあととりの不在は深刻な問題です。
社会構造の変化によってお墓のあり方もどんどん新しくなっていくようです。
お墓を建てない場合の供養方法まとめ
「お墓」という言葉が埋葬する場所のことをさすのであれば、ここに挙げるものはもはやお墓ですらないでしょう。
なぜなら「埋葬」をしないからです。
しかし、お墓を建てることに意味を感じない人は、次のような新たな方法で家族の遺骨を処理します。
散骨
散骨は、川や山や海などにパウダー状にした遺骨を撒いて処理する方法です。
法的にもグレーで地域住民への配慮もあり、現在散骨のほとんどは海への散骨です。
散骨業者が用意した船に乗り込み、沖合の散骨スポットで遺骨を撒きます。
散骨にも、委託散骨(業者に任せる)、合同散骨(複数の家族と一隻の船に乗り込んで散骨する)、個別散骨(船をチャーターする)などの方法があります。
ゼロ葬
ゼロ葬とは、火葬した遺骨を火葬場に預けて持ち帰らない方法です。
宗教学者の島田裕巳さんが提唱した方法です。
火葬場によっては遺骨を全部引き取ってくれる所もあるのですが、たとえば東京の火葬場は遺骨を全て家族が持ち帰らないといけないので、すべての地域でゼロ葬ができるわけではありません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
では最後にこの記事のポイントをまとめます。
この記事のまとめ
- お墓とは、あくまでも遺体の埋葬地のことであり、木や土を用いたお墓もある。
- お墓は、埋葬地のしるしであり、死者や先祖供養を祈る塔であり、私たちの幸せを祈る塔でもある。
- お墓は、仏教伝来とともに石塔による供養が普及し、江戸時代に入って庶民の墓石建立が一般化した。
- 旧石器時代から、縄文弥生などの古代のお墓は土壙墓が主流。
- 古墳時代の有力者たちはこぞって古墳を建てたが、「大化の薄葬令」によって埋葬が縮小化されていく。
- 平安後期から、仏教の影響により石塔の建立が普及していく。
- 江戸時代になると、経済力の向上と檀家制度により、庶民でもお墓を建てるようになっていった。
- 戦後に制定された「墓地、埋葬に関する法律」により、お墓や埋葬は地域の習俗から国の管理下におさまった。
- 石を用いないお墓に、樹木葬や納骨堂や永代供養などがある。
- お墓に埋葬しない方法に、散骨やゼロ葬がある。
監修者コメント
監修者
終活・葬送ソーシャルワーカー
吉川美津子
お墓とは、死者の遺体や遺骨が納められている場所およびその装置のことを言います。地域によっては、「サンマイ」「ラントウバ」といった別の呼称もあります。お墓の目印として庶民の間では、塚状に土を盛り上げるものや、自然石を積み重ねるもの、生木もしくは角柱状の木を立てるものなどが、長く墓標として使われていました。
また、お墓の場所も寺院の境内だけではなく、集落の一角、集落から離れた一角、屋敷の一角など多様でした。同族や村落共同体で共同墓地を設けた例もあります。そんな中で、明治以降急速に広まったのが家単位でつくられた「家墓」システムでした。このように、墓制は地域による風習の違いが大きく、また時代によって変化しています。